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映像制作するなら知っておきたい映像制作の成り立ち【後編】
こんにちは、株式会社モーションビジュアルジャパンです。広報担当者、映像制作をこれから取り入れていこうとされている企業の皆様に役立つ情報を配信しています。
今回は、前回(ここに前回ブログページのURL)に引き続いて「映像制作の歴史」です。知らなくてもいい情報、でも知っていると差が付く話です。
前回は、エジソンがはじめ、リュミエール兄弟が発展させた映像という新興業界の勃興について配信しました。今回は、ハリウッドは何故『映画の都』となったのか。これをみていきます。
エジソンが利益を確保するために何をしたか
まず、ハリウッドの成り立ちを語る上で、決して外せないのが「MPPC(モーション・ピクチャー・パテント・カンパニー)」。通称エジソン・トラストと呼ばれる組織です。エジソンは電球を発明した際に、電気事業に着手するために設立したゼネラル・エレクトリック社の権利を奪われた苦い経験がありました。(このストーリーは、実は映画にもなっています)特許に対する執着には並々ならぬものがありました。
1897年、外国のライバル会社の排除とエジソン社による国内市場の独占を目的に、特許権がある撮影機や映写機の使用、プリントの焼き付けなどを禁止する裁判を引き起こします。数多くの映画人を相手取った1907年にようやくエジソンの勝利で決着を迎えました。
これをきっかけにアメリカ映画の国内市場の独占を狙ったエジソンは、1908年12月18日に国内外の映画会社を集めて協定を結び、「MPPC(モーション・ピクチャー・パテント・カンパニー)」を結成します(以下、MPPCと略します)。要するにエジソンが自身で開拓した映画産業における利益を自分でがっつり吸い上げようという仕組みでした。この当時、かなりエジソンの発明に追随する企業が増えてきたことに危機感を持っていたのです。
MPPCはアメリカ国内での映画製作・配給を独占し、ヨーロッパ映画がアメリカ市場を席巻していた状況を終わらせました。またアメリカで製作される映画の質を高めて競争力を強め、アメリカでの映画の配給・上映の方式を標準化したので、映画の質が向上したことも事実です。しかしトラストに加入しないエクスチェンジ業者(映画館に映画を配給する流通業者)などの中間配給会社を抑圧しました。また、当時の劇場として主流だったニッケルオデオン(20世紀初頭に現れアメリカ合衆国で流行となった、規模の小さい庶民的な映画館。ニッケルはアメリカ英語で5セント硬貨、オデオンはギリシャ語で屋根付きの劇場の意)を閉館に追い込み、独立系の映画興行社やフィルムレンタル業者を訴訟と暴力で追い詰めます。また、エクスチェンジ業者や独立系映画会社は、ニュージャージー州など当時のアメリカ映画の中心地を逃れ、新天地ハリウッドへと移転していきました。
そしてハリウッドへの移転
なぜ、MPPCから逃げたかった映画会社は、当時多くの映画制作会社があったニューヨークやシカゴを離れ、アメリカのカリフォルニア州ロサンゼルス市にあるハリウッドに拠点を移したのか。それはニューヨークやシカゴは天候が悪い日が多く、照明技術が発達していなかった当時は、晴れの日を待って撮影しなければならなかったためです。
反対に、ハリウッドは農地が広がり、年間を通して雨がほとんど降らない土地でした。映画関係者が「ロケ地としてハリウッドは最適だ!」と次々と撮影所やオープンセットを建て始めます。確実に映画産業は黎明期から次の時代へと移り変わりつつあったのです。
そんな中、1913年には、映画配給会社の経営者だったウィリアム・フォックスがMPPCに対して「独占禁止法違反である」と提訴しています。アメリカでは1890年に制定された<シャーマン法>をきっかけに、不当な取引に対する制限と市場の不当な独占を禁止するようになりました。
訴訟の結果、MPPCは1915年に敗訴します。実はこの頃、独占禁止法のもうひとつの柱ともなっているのがクレイトン法です。1914年に成立したこの法律は、いわゆる“抱き合わせ販売”の禁止を明文化しました。MPPCは、加盟した映画業者のみがフィルムを購入できるなどの権限を持っていましたが、それらの独占行為が法律に抵触してしまいます。
MPPCが苦境に立たされたのは、他にも要因がありました。彼らの製作する映画は<短編映画>でした。しかし、1910年代になると、時代の流れが一変。海外(アメリカから見た外国映画)では<長編映画>の製作が始まっていました。ところがMPPCは長編映画の製作・上映に対して懐疑的でした。短編映画ならお客が何度も入れ替わり、新しい作品を何度も観に来る。ところが、長編映画は一日の上映回数が減ってしまう。このままでは利益が薄まってしまうと考えていた訳です。一方で劇場に足を運ぶ観客は、長編映画へと少しずつ関心を移していたのです。
また、それに付随して、“映画のフィルム”の存在もMPPCの弱体化に拍車をかけます。映画のフィルムが撮影で使用されるのは当然なのですが、現在のようなデジタル化によって上映素材がデータ化される以前は、上映においてもフィルムが使われていました。つまり、長編映画になれば撮影するフィルムの量も上映するフィルムの量も増え、フィルム制作会社の利益も増えます。しかし、長編映画の製作・上映に二の足を踏んでいたMPPCに対してイーストマン・コダック社が背を向けたのも、時代の流れとして当然でした。法律からも、時代の流れからも、同じ手を取り合っていた会社からも見放されてしまったMPPC社は解散する流れとなってしまい、かくして映画の中心地はハリウッドとなるのです。
いかがでしたでしょうか? 今回は映像制作の歴史、その中でも何故ハリウッドは『映画の都』になったのかをお伝えしました。
これをきっかけにぜひ、他にも映画の歴史や豆豆知識などを調べてみるととても面白いですよ。
【参考文献】
[ドキュメンタリー映画史], 著者エリック・バーナウ、出版社[株式会社筑摩書房], 発行年[2015年].
出典:https://finders.me/articles.php?id=31